あたまの中の1LDK

毎日、本、勉強の整理整頓

平日の早朝

あるnoteを読んで、気持ちがむずむずして、1ヶ月前からつけ始めた1日5行の日記ではあまりに気持ちが書ききれないだろうと思って、書いている。

 

noteに限らず、3点。

やっぱり1週間に1回はブログでもなんでも書き出したいと思う。

あの日記ではあまりに短くて、気持ちや考えが書ききれない。

 

とある件で説得を受けたけど、この人説得下手だな~って思った。

まず人を自分の思い通りには動かせないし、その人の悩み、苦しみ、考え全て無視して、自分の頭の中だけで「問題がない」ことを伝えるだけでは人の心は動かないんだなあなんて考えながら聞いてた。

この「問題がない」ことと、昨日の私の中にあったような「なにか」による合意に至らない結果の過程や背景をもっと言葉にしてみたい。

 

大学のキャリアセンターへ就職先を報告しに行った時に

「これから貴方の行く場所は、これまでのあなたの普通がマイノリティになってしまう。だけど、貴方の普通が生きることはきっとあるから。」

のようなことを自分の体験と一緒に言ってくれた。

 

それから1年ちょっと。

正直に言うと、自分がマイノリティだからどうこうと考える機会はなかった。

能力や結果は下の方だけど、それでも助けて貰った分は返していけるように努めてるし、同期や上司もいい人ばかりで出身や学歴でどうこうなることもないと思う。

 

ただ、それは自分が大卒で、東京で働くことができて、自分と同じステップを踏んできた人との交流が主だからかなとも思った。

自分が思わず環境を恨みたくなるような、この環境では必要な人に機会が巡ってこないと苦悩するようなことには出会ってないんだよね。

 

なにか気持ちを、考えを、書きたいって思ったけど、何もでてこないや。

書こうと思ったきっかけのnoteは機会の不平等の話だった。

挑戦できることが機会で、その挑戦の結果は人によるんだと思う。

でも、今自分が思ってる結果だって誰かの機会かもしれないし、自分が掴んだと思ってる機会は誰かの結果かもしれない。

機会と結果って違うけど同じなのかもしれない。

だから、機会平等論は完成することはなくて、常に不足の声と、機会を平等にするために富を配分している側の十分の声が拮抗し続けるんだろうな。

それでも、親の所得が自分の行ける範囲になってしまう子どもには、できるだけ平等な機会を与えるべきだって思ってた。

だけど、この世には私が想像できないくらいのお金を施した教育や、親の仕事等の理由で整えられた環境が存在する。

その全てに、希望だけで門戸を開くことは正しいのだろうか。

子どもは望めばどんなことだって、際限なくさせてあげるのが正しいのか。

制限したいわけではないんだけど、なんか、凄い環境を知るたびに、そこまで・・・?とは思ってしまう。

類似した(これも想像に過ぎない)環境にいける制度もゼロではない。

現実的に考えたら、今より良くするためには、その制度へのアクセスを容易にしていくってことなんだろうか。

平等に近づけていくためには、環境や情報に恵まれてる側をどうにかするんじゃなくて、恵まれない側を上げていくのは必須だと思うけれど、恵まれた環境って言う上限のない物をどこまで持っていけば。平等になるんだろう。